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| 【2007.5.14】 韓国と北朝鮮が分断されて半世紀あまりが過ぎた。南と北を結ぶ鉄路、京義線(キョンギ)と日本海側の東海線(トンヘ)は、今も分断されたままになっている。しかし2007年5月17日、歴史的な日がやってくる。約56年ぶりに南北間を列車が走るのだ。 京義線の列車は、朝鮮戦争の最中も、北から南へ、南から北へ物資や避難民を乗せ、走っていた。2004年私はプレスツアーで南北軍事境界線をバスで通った。その時、南北軍事境界線で、バスの車窓から数十メートル離れたところに茶色く錆付いた蒸気機関車を目にした。(第2回ビシバシ通信を参照してください)機関車は朝鮮戦争の時にストップしたまま雨風にさらされ残されたままになっている。朝鮮戦争開始から3年後、休戦協定が結ばれ南北は分断された。境界線をはさんで南北の兵隊が睨みを利かせている。南北軍事境界線には誰も立ち入ることは出来ない。つまり誰も自由にその機関車を見ることは出来ないのだ。 先日、ソウル郊外の儀旺にある鉄道博物館に行った。そこに赤茶けたスクラップ同然の蒸気機関車を発見した。銃弾の痕と見られる無数の穴が機関車には残されていた。機関車の表面は他にも大きな穴が開き、鉄がめくれていた。南北境界線に放置された蒸気機関車のレプリカだ。原寸大のものを韓国の鉄鋼メーカー「ポスコ」が作製したのだ。 (蛇足だがこの博物館には日本が植民地支配していた当時に走っていた蒸気機関車や、李承晩・朴正煕元大統領の専用列車、米国大統領が乗車した専用列車など、多くの列車が展示されている。列車の中にも入ることが出来る。第2次大戦前に日本から持ち込まれた蒸気機関車は黒々としていて、今すぐにも走り出しそうな雰囲気だ。保存状態も悪くない。そしてその蒸気機関車は実際、10数年前まで、韓国中を走り回っていた。入場料は大人500ウォン=約60円) 「鉄馬」と呼ばれるこの錆付いた蒸気機関車の最後の運転士にお会いした。ソウルから車で約1時間のところにある、京畿道・始興(シアン)市のアパートに住む韓・俊基(ハンシュンギ)さん80歳、その人だ。 韓さんは1927年、小倉市(今の北九州市)で生まれた。地元の学校で機械の勉強をしていたが、当時の日本は戦時中。授業の傍ら、竹やり持って軍事訓練にも励んだという。 そして43年、憧れの国鉄に入社。長崎機関区で運転士見習いとなり長崎を中心に乗車した。45年8月9日、韓さんは長崎に投下された原爆も体験した。寄宿舎で被爆し、割れたガラスでケガをした。その後、両親の強い希望で海を越え、初めて両親のふるさとの土を踏んだ。18歳の時だった。日本で経験した運転士の腕はすぐに役立った。朝鮮半島を運転士として蒸気機関車で走り回った。 その僅か4年後に、韓さんは再び戦火の中に居た。朝鮮戦争が勃発したのだった。 1950年12月31日、北朝鮮側から韓国に向けて20両あまりの客車を連結した蒸気機関車を韓さんは走らせていた、その時だった。突然、米軍(国連軍)のトラックがやってきて、兵士約20人が機関車に向けて一斉に銃弾を浴びせてきたのだ。 韓さんは、当時の状況をこう振り返る。 「北側から非難する乗客や物資を運んでいました。南に逃げる人たちでいっぱいで、客車の屋根にも多くの避難民が乗っていました。列車を走らせると振り落とされる人も居ましたが、停車するわけにも行かず、そのまま走らせました。悲惨な状況でした。」 「戦時中で、怖いという気持ちではありませんでした。何がなんだかよく分からなかったというのが率直な気持ちでした。」 なぜ米軍が南側に逃げてきた人が乗る機関車を襲ったのか・・・!? 南進する中国人民軍に、機関車が奪われ、利用されないようにするための措置だったのではないかと韓さんは語る。 その日を最後に、京義線を南北列車が往来することはなくなった。 今年5月、その南北を結ぶ京義線を、56年ぶりに列車が走る。 最後の運転士と韓国政府に認定されている韓俊基さんは、その列車に招待され、北朝鮮に行く予定だ。 「政府行事で最後の運転士ということで招待していただいたということは私の一生の光栄です。南北が鉄道開通に基づいて平和統一が早まるのではないかという気もする。とても嬉しい。南北統一が早まるのではないか・・・。私の生きている間に統一されるのが私の願いです。今回の列車に招待されたのは一生の光栄です。」 2007年5月17日(木曜日)、韓国から北朝鮮へ、北朝鮮から韓国へ列車が往復する。 実に56年ぶりのことだ。 しかしあくまでこの往来は、その日だけ行われる試験運行だ。 南北を自由に列車が行き来する日はまだ見えてはこない。 |
![]() (2004年10月石橋特派員撮影) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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